今回は、中村 文則さんの小説‘’教団X‘’がとても興味深い内容だったので、ブログに書いてみました。「僕たちが生きる世界の仕組み」はどうなっているのか?なぜ私は存在するのか…
意識と脳の関係
さて、いきなりですが「意識」とは何だと思いますか?
誰もが一度は考えたことがある「私」と言う存在。
この「私」について考える意識の仕組みはどうなっているのでしょうか。そもそもなぜ「意識」というものが存在するのか…考えたら不思議に思いませんか?なぜ自分が存在するのか…
この「意識」と「脳」の関係について、とても奇妙な話があるんです。
「意識」が脳の活動によって形成されていることは、イメージしやすいですよね。脳があるから僕たちは考えることができるのです。
もう少し具体的にいうと、脳は千数百億個の神経細胞が、それぞれシナプスと呼ばれるもので接合され構成されており、そこで発生する電気信号で活動しています。この仕組みのおかげで、僕たちは記憶することができ、自分を認識できるのです。
そして、人間の体は全て無数の原子結合で構成されています。脳ですらミクロの世界で考えると原子の結合により形成されているのです。(ちなみに原子はさらに小さい陽子・中性子・電子からできており、陽子と中性子は、より小さいクォークからできてます)
では、なぜこの無数の原子結合(化学反応)から意識が生れるのか?
僕たちは自分の頭で考えて行動しています。僕はブログを書こうと思ったからキーボードを叩いているわけで、休憩しようと思うから、休憩するわけです。つまり、自分と言う意識が体を動かしている…はずですよね。
しかし、この考えが否定される実験結果があります…
それがベンジャミン・リベットという科学者による実験です。
この実験結果によると、人間は何かしようと意志を起こす時、実はその意志を起こすよりも前に、本人にも分からないところで、すでに脳のある部分が反応しているのです。
分かりやすく言うと、自分の指を動かそうとする意志よりも先に、その指を動かす脳の神経回路が反応しているということです。
驚きませんか?
つまり、私(意識)は主体的に動いているのではなく、脳の活動をただ反映させて動いているに過ぎないということです。
今、あーだこーだと考え込んでいるこの私(意識)は、自分がやることを決定したり、何かを思うことも決してないのです。私(意識)が自分をコントロールしていると思い込んでるだけで、実は脳の決定を遅れてなぞっているだけなのです。
なんだか怖くなってきましたね。
実は、これが意識の正体。私が主体的に脳を動かしているのではなく、脳が私を動かしているのです。信じられませんよね。「私」が「人間」という座席に座って、人間が歩む人生を観客として観ているような感覚です。
さらに驚くことに、仏陀(ブッダ)はこの意識の正体に遥か昔から気付いていました。
仏陀は仏教の開祖と言われており、ゴータマ・シッダールタという名前です。
日本に住む人なら一度は聞いたことがある名前でしょう。ブッダは紀元前500年頃に生まれ、35歳で悟りを開きました。ちなみに大仏はブッダを大きな銅像にしたものです。
「悟り」とは物事の真の意味を知ること。あらゆる欲望を無くし、快も不快もない状態。つまり何も考えない「無」の境地。輪廻のサイクルから解脱した涅槃(ニルヴァーナ)の状態。まさに、人間が精神の分野において神を超越している状態です。これは言葉で理解できても脳で理解ができませんね。
そして、ブッダの経典の中で一番古い「スッタニパータ」という経典があります。そこに興味深い事が書かれています。
「われは考えて有る」という「迷わせる不当な思考」の根本をすべて制止せよ
これは「私(意識)という存在は、どこにも存在しないよ」と言っているのです。2500年前にです…
つまり、仏陀は化学的な実験も、脳の解剖もせずに、ただ意識を見つめて瞑想し続けることで、私(意識)が本当は実体のない存在だと気づいたということです。
ここで疑問が生れます。なぜ、脳は私(意識)という存在を作ったのか?作らせざるを得なかったのか?
一説によると私(意識)の出現は、爬虫類→鳥類、爬虫類→哺乳類へ進化する過程で出現したとされています。これは、私(意識)という認識があった方が生物として有利だったからです。もし私という概念が無ければ、原子結合の塊に過ぎない人間の記憶に、統一性を持たせることができません。脳が記憶という不思議な仕組みを効率よく行うために、私という意識を作ったのです。なんだか怖いですね、原子さん。
私(意識)は実体のない存在…となると「私」の存在とはいったい何なのでしょうか。人間は吸収と排泄を繰り返す生き物です。体を形成する原子も1年経てばすべて入れ替わります。ブッダは遥か昔から、人間は入れ替わりながら塊が維持される、原子の結合体に過ぎないということに気づいていたのでしょうか。そこに「個」は存在しないと…
もちろん、私(個)は存在しないことが真実だと断言することはできません。「意識は拒否権を持っている」という説や「意識が主体で脳に直接働きかけることができる」という説もあります。本当のことは誰にも分かりません。
ただ、こういう有力な説もあるという事を知っておくと、私欲が絡んだ争いなどが滑稽に思えるでしょう。戦争なんかも無くなりそうです。何かくよくよ迷ったとき「あーあ、また脳が悩んでいる。めんどくさいなこの原子の集合体は」と思えるかもしれません。
次章では、この「原子」と「宇宙」の関係について見てみましょう。
宇宙の始まりとリグ・ヴェーダ
第1章「意識と脳の関係」では、私(意識)が主体的に脳を動かしているのではなく、脳が私を動かしていること、さらにブッダは瞑想することによって「私(意識)は存在しない」という仕組みに気付いたことを述べました。
では、なぜそのようなことが可能だったのでしょうか?
それを解き明かすために、謎に満ちた「宇宙」と、古代インドの聖典である「リグ・ヴェーダ」について見ていきます。
僕たちが住むこの宇宙とは一体どうゆうものなのか?どのように誕生したのか?
これは誰もが一度は考えたことのある問題です。
地球は太陽系と呼ばれる空間に属しており、太陽系の星が集まった集団を銀河と呼びます。
銀河は円盤のような形をしており半径は5万光年。光の速さでも端まで辿り着くのに5万年かかります…そして宇宙には、1000億個もの銀河が観測されています。頭で理解できませんね。
この壮大な宇宙はビッグバンによって137億年前に誕生しました。
どのようにしてビッグバンは起こったのか?仕組みを見てみましょう。
まず、真空をイメージしてください。なにも無いただの空間。しかし、何もない真空というものは、実は存在しません。真空の中では原子よりも、さらに小さいミクロ素粒子がパッと生まれては消えると言う事を繰り返しています。つまり「無」でもあり「有」でもある状態。
さらに宇宙は「この瞬間」という時間的な一点から始まったのではありません。僕たちは、過去→未来へ流れる時間の中にいますが、宇宙が誕生する前は、過去も未来も無い「虚数の時間」の中にいました。僕たちの脳では理解できませんが、どこが始まりかもわからない状態の中で、宇宙はパッと誕生したのです。
では、どうやってパッと誕生したのか?これは「トンネル効果」と呼ばれており、ミクロの物質は一時的にどこからかエネルギーを借りてくることができるのです。この不思議な現象でパッと生まれては消えると言う事を繰り返していた粒子がきちんと存在してしまった。この瞬間に「虚数の時間」は、僕たちが認識できる時間に変化したのです。
そしてビッグバンが発生し宇宙の温度は1000億度に達しました。これが宇宙の始まりになります。
さて、ここで「リグ・ヴェーダ」の登場です。
「リグ・ヴェーダ」は紀元前1200年頃につくられた、ヒンドゥー教の聖典の中で最古のものになります。そこに宇宙の誕生について書かれた文章があります。
そのとき何も無かった。有も無かった。宇宙の最初においては暗黒は暗黒に覆われていた。一切、宇宙は光明なき水波であった。空虚に覆われ発現しつつあったか唯一なるものは、熱の威力によって出生した。最初に意欲はかの唯一なるものに現じた。これは思考の第一の種子であった。聖賢たちは熟慮して心に求め、有の連絡を無のうちに発見した。彼ら(聖賢)の紐は横に張られた。下方はあったのか、上方はあったのか。はらませるもの(男性的な力)があった。威力(女性的な力)があった。神々は宇宙の発展より後である。
これは驚くことに、3000年前に書かれた文章が、最新の物理学と一致しています。
宇宙はトンネル効果によって、無も有も存在しない真空で誕生しました。最新の素粒子理論では、ミクロの物質を「粒」ではなく「紐」状だと考えています(超ひも理論) 神の誕生が宇宙の後だというのも興味深いです。
聖賢というのは謎ですが、別次元に母宇宙のような存在があるのかもしれません。リグ・ヴェーダをつくった人は、3000年も前に現在の最新宇宙論を予見していたのです。
なぜこのようなことが可能だったのでしょうか?
それは、彼が宇宙の仕組みを知っていたからです。
では、どのように知ったのか?
原子は原子のことを知っています。「知っている」という表現が当てはまらないのなら「原子は原子のことを自ら体現している」と言ってもいいでしょう。もし人間が1つの粒子ならば、他が人間の考えていることを理解することはできませんが、人間同士なら何を考えているか分かる様なイメージです。
リグ・ヴェーダの作者の脳も当然、無数の原子の組み合わせで出来ています。その無数の原子の組み合わせが、意識である彼に「世界の本質」を見せたのではないでしょうか。彼は恐らく瞑想し、ある境地に達し、この映像を見た。いわゆる原子が内包している真実を…
宇宙とはなにか?その答えは「脳」に隠されている。なんとも不思議ですね。
さらに話を進めます。
宇宙について知れば知るほど、不思議な感覚に包まれる…なぜなら、この宇宙という存在が、人間にとって都合よく作られ過ぎているからです。太陽の存在、三次元の空間、炭素や水素といった原子の誕生、物理の法則…
まるで「この宇宙が人間を作るために存在する」と言えてしまうほどに。
もちろん科学者は人間本位な考えを否定します。
「人間が生れたから、都合よく感じるのは当たり前だ」「人間が存在しない宇宙も無数にある」
それでも、僕はこの宇宙が人間にとって都合よく作られていると感じます。ここには何か意味があるはずだと。
そもそも僕たちが信頼をよせる科学はどこまで正確なのでしょうか?
現在、宇宙の96%が正体不明の物質やエネルギーから構成されていると言われています。宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質です。つまり、人類が知っている物質は4%に過ぎないのです。正体不明なので分からないのですが(観測できない)、質量があるのに、他の物質を通り過ぎてしまう、幽霊のような粒子もあるみたいです。現在の物理法則を根本から否定する存在ですね…
そもそも「相対性理論」によると、僕たちが平等だと思っている時間ですら、重力の影響で伸びたり縮んだり歪んだりするのです。アインシュタインさん…すごいです。
さて、以上を踏まえて、この世界の仕組みを考えてみます。
ここで思い出して欲しいのは「人間の意識は、脳に働きかけることができない」という点。私たちは脳の決定をなぞっているだで、私(意識)→脳 へ働きかけることはできないのです。
つまり、この世に存在する物質の内、私という意識のみが、この世に存在する物質に影響を与えることができない。
これはなぜなのでしょうか?
それは意識が僕たちの住む三次元の世界と異なる領域に位置するからだと考えられます。
ブレーン宇宙論によると、僕たちの宇宙は十次元空間の中を漂う、薄い膜のようなものだと推測されおり、一次元は「線」、二次元は「平面」、三次元は僕たちの世界、四次元は「時間」だと言われています。つまり、何にも影響を与える事ができない、私(意識)が属している領域は別次元にはみ出していても、おかしくありませんよね。
原子の結合(化学反応)による発展は、意識を通して「別次元」と接続する可能性を有していたと考えましょう。生命や社会の発展も、元を辿れば原子の化学反応です。そして私(意識)を形成する脳も原子の集合体。ということは「原子たちは元々、意識を作り出す能力が備わっていた」と考えることができるのです。
最新科学では、暗黒物質も異次元間を運動している可能性があるとされています。僕たちの脳では理解しがたいですが、こう考えると「輪廻」や「幽霊」の存在も否定できません。そもそも存在する次元が違うのです…
原子が意識を作った。強いて言うなら作りたかった。そして私(意識)を通して異次元に接続しようとしている…こう考えると宇宙が人間にとって都合よく出来ている説明にもなります。原子がそうしたいから、と。
では「原子たちが創り出した意識(私)」が向かう別次元とはどこか?
それは残念ながら誰にも分かりません。自分という存在が死に、原子結合が崩壊し、意識が異次元へ行ったときに知ることができるのかもしれません。そして原子が私(意識)を作ったからには、私(意識)は、無駄な存在ではなく、何か意味がある存在だと思うのです。
次章では、物理の側面から人間の運命について見てみましょう。
量子力学と運命
「宇宙の始まりとリグ・ヴェーダ」では、宇宙がビッグバンで誕生した仕組みと、ヒンドゥー教の聖典「リグ・ヴェーダ」から、原子たちが元々、意識を作り出す能力を備えていたことを述べました。
今回は人間の運命についての話です。
もし、今までの話が正しいのであれば、僕たちの運命は、原子によって決められている様に感じます。果たして、本当にそうなのでしょうか?
まずは人間という存在についてみていきましょう。
僕たちの身体は死んだらどうなるのでしょうか?日本の場合、火葬されるのが一般的なので、骨と灰だけなってしまい、私は消え去ります…でも本当は違います。
人間の身体が火葬で焼かれでも、実は消滅しないんです。
僕たちの身体は原子で構成されていると①~②で述べてきました。つまり、分子レベルの解体は行われますが、原子そのものは消滅しないんです。煙となった原子たちは空中に拡散し、この地球上に滞在し続けるのです。そして再び誰かの身体一部と成っていく。
このように考えると、人間の身体は大昔からの使い回しであるという事ができます。あなたの体に、織田信長の一部があってもおかしくありません。ミクロの世界では「個」という概念は存在せず、僕たちは常に流れている物の一部に過ぎないのです。
それなのになぜ、私(個)が存在すると思うのか?それは脳が自分は「個」であると思わせているからです。にもかかわらず、私(意識)→脳へ何も働きかけることはできない…となると「私」の存在は何なのか…
この疑問を解決するために、人間の運命について考えてみます。
ビリヤードを例に挙げましょう。あなたは狙いを定めてビリヤードの球を突きました。この瞬間、突かれた球がどのような動きをするのかはすでに決まっています。他の球においても、どのように当たり、どこの穴に落ちるか決まっているのです。
宇宙はビックバンによって始まったと、第2章で述べました。それは一種の爆発です。もし、その時のエネルギー、熱量、噴き出した粒子が異なれば、その後の宇宙の発展も変わっていたはずです。ということは逆に、人間の住むこの宇宙が存在した時に、このような展開になることが既に決まっていたと言うことになってしまいます。
さらに僕たちは脳の決定をなぞることしかできず、主体的に脳へ働きかけすることができません。ということは、やはり運命によって未来は支配されているのでしょうか?
いいえ、違います。
いや正確には違うかもしれない。どういうことか?ここで登場するのが「量子力学」です。
量子力学とは従来の物理学では説明のつかないミクロの世界を論じていくものです。先ほどのビリヤードの例をあげると、球を突いた瞬間に結果が決まるのが従来の物理学。それに対して、結果が分からない(変わってしまう)のが量子力学です。理解が追いつきませんね。
量子力学を体系的に理解するうえで重要なのが「二重スリットの実験」と「シュレディンガーの猫」の話です。
量子力学(ミクロ)の世界では、ある確率で「X」という状態になり、ある確率で「Z」になる状態が存在するのです。観測するまでその物質が存在しているのかも分からないとも言えてしまいます。さらに、物事の結果が大きい確率の方へ動くとも限らないので、今現在、このようにある宇宙の状態も、様々な「偶然」が作用していると考えられるのです。
つまり、運命なんてものは存在しないのです。
しかし、現時点において、誰も何が正しいのか断定できません。可能性で論じるしかありません。
アインシュタインは「神はサイコロを振らない。自然はもっと完璧な方法で語られなければならない。ただ、人間の認識が完全性を把握するまでに至っていないだけだ」と言っています。
つまり、この世界の仕組みがどうなっているのかなんて誰にも分からないのです。もし、この仕組みを知ってしまえば「運命」を受け入れることになってしまう。知らぬが仏かもしれませんね…
最後の章では、これまでの内容を整理するとともに、我々の生きる意味について見ていきましょう。
我々の生きる意味
宇宙はビッグバンによって誕生し、原子が生まれ、この世界を形成しました。
そして、ベンジャミン・リベットという科学者による実験を通して「私(意識)が主体的に脳(原子)を動かしているのではなく、脳(原子)が私を動かしている」と言うことが分かりました。
それよりも前に、仏陀(ブッダ)とリグ・ヴェーダの作者は、遥か昔に瞑想を通じて意識と向き合い、この「私(意識)と脳の関係」に気付いていた…
なぜ気付くことができたのか?それは原子が元から意識を作り出す能力を備えていたからです。僕たちの脳もミクロで見れば原子で構成されています。
もし、この意識と脳の関係が真実ならば、私達は脳の決定をなぞるだけの存在となってしまう…
しかし、こう考えることもできませんか?
脳(原子)が私(意識)を作ったということは、ここには何か意味が存在すると…
この意味とはいったい何でしょう?
僕はこの意味が「我々の生きる意味」に繋がっているではないかと思うのです。
第1章で、私(意識)が人間という座席に座って、人間が歩む人生を観客として観ているような感覚だ、と述べました。
その意識を作ったのは原子です。そして、意識が、私が、毎日していることは何か…それは自分を通じて多くの人生を見ることです。この人生とは言わば「物語」です。
ということは、原子が「物語」を求めている。
そして「私」とは、別次元からその「物語」を観る観客。この「私」には熱量もエネルギー量も無いから、人間による物理の法則の外にある。この奇妙なバランスこそが、世界の仕組みではないか?
この「物語」は、神話、ドラマ、フィクション、勉強、なんだって良い。だらだらした一日。友達と遊んだ一日。しんどかった一日。つらかった一日。この全てが、かけがえのない物語です。ここに優劣なんてありません。
この物語に、どのような意味があるのかは分からない。我々の物語を欲する”何か”が存在しているのかもしれない。単に原子のたゆたう流れの中にあるだけかもしれない。しかし僕たちは、もしも意味があった時のために、きちんと生きなければいけない。
物語を生み続けること…これこそが「我々の生きる意味」です。
だから、人の物語(命)を奪ってもいけないし、自ら物語(命)を絶ってもいけない。僕たちの物語は、ビリヤードのように運命が存在するかもしれないし、量子力学のように運命など存在しないかもしれない。僕は大きい運命の中に小さな偶然があるように思います…
さて、ここで自分の過去を思い出してみてください。そこには必ず自分が歩んできた一本の道があります。そして、その道はあなたが死ぬまで続いていきます。決して2本の道を歩くことはできません。それが決められた道であろうと、変えられる道であろうと、関係ありません。
結局は一本だけなのです。
この脳によって見せられた人生を歩む過程において、困難を西洋的に「神の試練」と捉え運命に挑むのか、それとも、東洋的に「諸行無常」と捉え安らかに暮らすのかは自由です。時には運命を信じ、時には偶然を信じれば良い。どちらが正しいなんてことはありません。
さあ、脳によって見せられた人生(ショー)を思う存分楽しみましょう。この世界は…この圧倒的に高度で、膨大で、複雑なシステムは、全て、あなたの「物語」のためにあるのです。
END